藤よし History


戦後史も分かる「藤よし」ヒストリー
語り:藤よし代表取締役会長、早川鴻之輔(はやかわ・こうのすけ)さん

昭和24年(1949年)。4年前の敗戦で焦土と化した日本は、必死になって国を立て直す途上にありました。この年の正月から、ようやく国旗掲揚がGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に認められた、そんな時代。国鉄総裁が行方不明になる下山事件など暗い事件もありましたが、古橋広之進らが全米水上選手権で世界記録を打ち立てたり、湯川秀樹がノーベル物理学賞を受賞して、敗戦で自信を失っていた日本人の気持ちを奮い立たせました。「人は右、車は左」という対面交通が実施されたのもこの年でした。そんな中、5月7日に飲食店の営業再開が正式に認められたのです。

早川鴻之輔さん

やっと飲食店の営業ができるようになった、その年のことです。長兄の早川清一が、福岡市の筥崎宮参道に屋台を開業し、焼きとりを提供し始めました。これが藤よしのルーツ。それから5年後の昭和29年(1954年)には、早くも屋台から店舗になりました。焼きとりが評判だったんです。加えて、兄はアイデアマンでしてね。当時はたばこに火をつけるマッチが客寄せになっていた時代。スナックなんかもPR用に作っていました。兄はそこに目を付けた。どうせなら、客が興味を持つものと、というので、なぞなぞや、不思議な数式をマッチにデザインするんです。客は答えを知りたいから店に足を運ぶ。新しいデザインのマッチが欲しくなる。そこに秘められたユーモアや、意味深なお色気が分かると、お店の中は大爆笑。うまい焼きとりと、マッチをネタにした話の面白さ。それで、どんどんお客様が増えていったというわけです。

焼きとりの歴史を紐解くと、900年以上前の平安時代後期にさかのぼります。当時の摂関家寝殿の実像を記した儀式饗宴の献立には、すでに鳥焼物というメニューが記載されています。昔は山鳥、ヒバリ、キジ、 鴫(シギ)などが食材で、多くは串焼きで調理したと記録されています。つまり、現在の焼きとりの原型ができていたわけです。「それにしても、神社の参道に焼きとりを売っていいの?」と思う方も多いでしょう。ところが実は、神社の参道に焼きとり屋が並ぶのは江戸時代から続く慣習であり伝統だったのです。

早川鴻之輔さん

昔は、焼きとり屋で使う食材は主にスズメでした。焼きとりといえば、ほぼスズメだったんです。スズメの丸焼き。スズメは寒い冬に備えて体に脂肪を蓄えます。食材としては、脂肪がたっぷりになる少し前がいい。9月ごろですね。福岡市では、筥崎宮の放生会が始まるころです。スズメの旬はこの時期からです。藤よしは、常に季節感を大切にしています。だから博多っ子は「旬のスズメを食べるなら、筥崎宮の藤よしだ」と評判になりました。ただ、時代の流れで、スズメを食材として使うのは難しくなっていったんです。

現在、スズメは鳥獣保護法によって捕獲は原則として禁止されています。ただし例外もあり、きちんと手続きを踏んだ上での狩猟、または許可による捕獲は認められています。しかし、姿焼きで提供されるスズメの丸焼き自体が敬遠されるようになり、現在ではスズメの丸焼きを出している焼きとり屋は多くありません。稲荷神社総本宮の伏見稲荷大社の門前名物などがわずかに知られているだけです。焼きとり屋も法規制と一般常識の変化によって、新しい素材の試行錯誤を迫られることになるのです。

早川鴻之輔さん

そんな中、昭和30年(1955年)に、兄夫婦から「藤よしを手伝ってほしい」と頼まれたんです。ところが私はちょうど北海道の製菓会社に就職が決まった直後。しかし、九人きょうだいの長兄は、末っ子の私にとって親も同然です。迷うことなく新潟から福岡にやってきました。まず、博多でも老舗の料亭「やま祢」さんで料理修行を積ませていただきました。当時学んだことで一番肝に銘じているのは、料理法じゃない。店の格式です。偉そうにするということじゃない。お客さんに満足していただけるお店の品格、料理人の品性。焼きとり屋も、そういうところはきちんと居住まいを正さないといけない。

鴻之輔さんが博多の土を踏んだ昭和30年(1955年)は、日本が奇跡の高度経済成長に向かって変貌しつつあるころでした。トヨタがトヨペット・クラウンを発表。マイカーブームの萌芽が見えました。プロレス遊びが流行り始め、石原慎太郎の「太陽の季節」が若者を興奮させました。繁華街には島倉千代子の「この世の花」、菅原都々子の「月がとっても青いから」が流れ、プロ野球日本シリーズでは、南海ホークス(現ソフトバンクホークス)が3勝1敗で王手をかけながら巨人に逆転優勝をさらわれました。翌年度の経済白書では、有名な「もはや戦後ではない」という文言が盛り込まれました。まだまだ貧しいけれど、世の中には活気がみなぎってきたのです。

早川鴻之輔さん

日本全体が活気づいてきたころに、兄が経営する箱崎の店に入ったわけですが、ものすごい人気でした。平屋で、12人座ればいっぱいになるカウンターだけ。外で待っているお客もいる。夜遅く、というより未明まで働くもんですから、昼と夜が逆転した生活が続きました。「藤よし」という屋号ですか?それには理由がありましてね。

戦前から戦後にかけて活躍した世界的オペラ歌手、藤原義江。スコットランド人を父親に持つ藤原は、日本人離れした風貌と、天才的な歌唱力を持つ声楽家(テノール)であり、「吾等のテナー」という愛称で親しまれました。太平洋戦争中にも公演を開き、戦後すぐの昭和21年(1946年)1月には「椿姫」を帝国劇場で披露するなど、大スターだったのです。

早川鴻之輔さん

常連さんの一人が、その大スター、九大産婦人科の医師で長野先生が、藤原義江に兄がそっくりだと言い、「藤よし」という店名をつけてくださったんです。今でいうイケメンですからね。兄もまんざらじゃなかったみたいで、しかも歌もうまかったので、店じまいの時間が近づくと、自らオペラを歌い、それがまた噂を呼んで、さらに客が増える。好循環が生まれたんです。

昭和36年(1961年)、早川鴻之輔さんは自分の店を持つことになります。東京オリンピックを3年後に控え、日本全体が大きく変わり始めていました。南極に置き去りにされた、1年後に奇跡の生還を果たしたカラフト犬、タロとジロのうち、タロが帰国したのもこの年でした。世界では東ドイツでベルリンの壁が築かれ、東西大国間の緊張が高まりましたが、日本は文化、スポーツが花盛り。黒澤明監督の「用心棒」の主演・三船敏郎がベネチア国際映画祭で最優秀男優賞を受賞。人々は坂本九の「上を向いて歩こう」、石原裕次郎、牧村旬子の「銀座の恋の物語」を口ずさみ、普及し始めたテレビでは「アンタッチャブル」や「七人の刑事」が人気を博しました。大相撲は絶大な人気を誇った大鵬が名古屋場所、秋場所、九州場所と3場所連続優勝。また3年後の東京オリンピックで金メダルを獲得することになる日紡貝塚女子バレーチームは、欧州遠征を全勝で締めくくって帰国。「東洋の魔女」と恐れられたものです。

早川鴻之輔さん

私が西中洲に現在の店「藤よし」を開いたのは1961年の11月9日です。ですから、2021年に60周年を迎えます。私もまだまだ現役。あと10年はやりますよ。串を刺しては焼き、また刺して焼く。その積み重ね。それは同じことの繰り返しじゃない。一本一本が勝負です。同じ形のものは絶対にない。一つ、一つが丹精込めた勝負の品。その気持ちが無いと、焼きとりは絶対に美味しく仕上がらない。それはバブル時代も、バブルが崩壊した後も、変わらない私の気持ちでしたね。

この時、鴻之輔さんは大きな方向転換を決意します。箱崎店時代から使ってきた樫小丸という備長炭は、昔からいろんな焼きとり屋が使ってきました。焼きとりと言えば炭火。切っても切れない関係のように思えましたが、本当にそうなのか?鴻之輔さんは考え抜いた末、電気で焼く方式を導入しました。確かに炭火には良さも多い。しかし、煙がたくさん出るし、何より将来簡単に入手できなくなったり高騰する可能性もあります。しかし電気であれば、火力をきめ細かく調節できます。「これは肉全体にしっかり必要な熱を与えて、最適の火の通りを実現できるに違いない。また極端に大きな炎が上がったりしないし、煙が出にくいというメリットもある」。そう考えて導入したある日、思いもかけない人がやってきました。

早川鴻之輔さん

私が西中洲店を開くときに最初に考えたのは女性客を増やしたいということでした。高級服を着た女性でも気軽に来れる焼きとり屋です。当時、木炭しかなかった焼きとり屋は煙もうもうで、客層は男だけ。しかし人口の半分は女性です。女性に来てほしい。しかも店の場所は西中洲。九州最大の歓楽街の近くですからね。電気で焼けば煙がほとんど出ないし、換気装置もつけやすい。口コミでうわさが広がり、女性客が増えた。女性が増えると、男性客も増えますよね。そんなある日、なんと九州電力のお偉方が店に来られたんですよ。「電気で焼いた焼きとりは、どんなものか視察です」って言ってね。結局、「美味しいですね」と言って帰られました。電気にして正解だったな、と思いましたよ。持論ですが、焼きとりが美味いかどうか、その決め手は炭か電気かじゃない。焼く方法で味が変わるような食材を使ってはいかんと思うわけです。それよりも、食材を見極める目を養い、串に刺す確かな技術を身につけ、火の通りを直感的に判断する経験を積むことです。炭もいいが電気もいい。使いこなすことができるだけの技術を経験を持てば、どっちでも変わりません。ただ、電気で焼くと、周りも含めて、きれいな仕事ができる。それは間違いないでしょう。ともかく、それからは順風満帆でした。あのバブル景気まではね。

いわゆるバブル景気は、一般的に昭和61年(1986年)から平成3年(1991年)に日本で起こった資産価格の上昇と好景気に伴う社会現象を指します。潤沢な土地や金融資産の運用で莫大な利益を上げる企業が続出しました。消費も派手になり、スーパーカーや、ゴッホなどの名画、DCブランドファッション、第二次ディスコブームが起こったのです。一般庶民の間にも、マンションを買っては転売し、最終的に希望する物件を手に入れる手法が広がり「住宅すごろく」と言われました。特に都市部の不動産業、建設業は活況に沸き、福岡市も中洲を中心にかつてない賑わいを見せたのです。

早川鴻之輔さん

バブルのころは、すごかったね。うちで腹ごしらえした常連の企業戦士が、接待で中洲に向かいます。ところが、接待を終えた常連さんが、中洲の女性たちを引き連れて、もう一度お店にやってくる。店内がとてつもない活気にあふれていました。

しかし、終わりは突然やって来ました。平成3年(1991年)3月から起こるバブル崩壊です。バブル景気時代に急上昇した地価は一気に下落。消費税導入の影響もあり、日本経済は極度に悪化したのです。企業倒産、大量解雇、就職氷河期、非正規雇用の増加。バブル崩壊で不動産の時価は大暴落し、損失補填や隠蔽、貸し渋りや貸し剥がしなど、金融機関に対する批判が高まりました。経営が苦しくなった飲食店も倒産が相次ぎ、バブル景気は、まさしく泡のように消え去ったのです。

早川鴻之輔さん

バブルが崩壊してから、日本は灯が消えたようになりました。あれだけ豪遊していた業界の企業戦士が姿を消したんです。不景気に加え、接待禁止という風潮も生まれてきた。急に逆風が吹き出しました。あれだけ賑わっていたカウンターに、お客はぽつり、ぽつり。私はカウンターの中に立って考えました。 「焼きとり屋って、なんだ。それは庶民の食べ物を、安心できる値段で提供することだ。庶民の食べ物なんだから、どんな人でも気軽に来れる店でなきゃだめだ。高い食材を使う飲食店では、それが難しいが、焼きとりはメニューさえ考えれば、安く提供できる。それが強みになる」とね。思考錯誤でいろんなメニューを考えました。その中で、お客さんに支持されたものが今も現役メニューになっています。

何十年も続く老舗には、創業当初から通ってくれた常連さんから、観光で東京や大阪から来た一見さんまで、いろんなお客が焼きとりを食べにきてくれた。その中でも、忘れることができないお客さんがいる。バブル景気真っ盛りのころの話だ。

早川鴻之輔さん

バブル景気のさなか。企業戦士たちは、中洲で毎晩湯水のようにお金をつぎ込んで接待する日々でした。その中で、大切なクライアントを何時間接待しても、最後には必ず「藤よし」にやって来る常連の会社員がいました。ところが、ある時期から店に顔を出さなくなった。「やはり、バブルが弾けると、つながりも弾けてしまうのか……」と寂しい思いをしていたんです。ところがある時、その彼が一人で、ふらっとやってきた。「久しぶり」とだけ言ってカウンターに腰を下ろします。いつも何本でも食べるから、こちらはそのつもりで構えていると、彼が注文したのは、一番好きな串を2本だけ。それだけ食べると、私を見つめて、「やっぱり、藤よしの焼きとりはうまいね」と言い残して帰っていきました。それっきりでした。ところが、しばらくして分かったんです。別の常連客から「実は、彼は病気で亡くなったんだよ。え?ここに来たんですか?」と驚いていました。私も驚きましたよ。もう、あの時は体が限界だったんでしょう。バブル景気のさなか、企業戦士として全力で走り抜けた。そして力尽きた。人生の最後に、藤よしの焼きとりを食べに来てくれたのか……。そう思うと、なんだかじーんときましてね。料理人冥利に尽きますし、そういうお客さんがいるからこそ、カウンター前に立ったら、真剣勝負をしなきゃいかんのです。

2016年。老舗焼きとり店藤よしに一大転機が訪れます。武者修行に出ていた息子の早川禎行(さだゆき)さんが、和食の腕を引っ提げて、藤よしに戻ってきたのです。焼きとり専門店だった藤よしは、ここから一気に変貌していくことになります。 この年は、4月には熊本城、熊本県益城町、阿蘇地方に甚大な被害を与えた熊本地震が発生。リオ五輪では日本のメダル獲得数が金12、銀8、銅21の合計41個と過去最高を記録。大相撲初場所では琴奨菊(柳川市出身)が優勝しました。 そして、和食文化について日本人が関心を抱く大きな話題があった年であった。舛添要一東京都知事の失脚で行われた都知事選で、当選したのは小池百合子新知事。彼女が、日本の和食の台所ともいえる築地市場移転の最大の焦点だった豊洲市場に関して、土壌汚染対策の必要性を強調して開場を延期しました。降ってわいたこの問題は、和食や、和食に欠かせない鮮魚、活魚に関する関心が一気に高まるという社会現象を起こしたのです。

早川鴻之輔さん

息子の禎行が帰ってきてくれたのは2016年9月でした。心の底から嬉しかったですね。息子には、心を鬼にして苦労をさせました。そして、一人前の料理人として帰って来たわけですから、嬉しくないわけがないですよ。藤よしは、あくまで老舗の焼きとり屋。でも、焼きとり屋だって、どんどん進化していくものです。私自身、60年間、改革、改良、創意工夫の連続でした。それで、今の藤よしがある。これからは、息子が藤よしをどう進化させていくか。それが楽しみです。でも、私は隠居はしませんよ。あと10年は焼き場に立ちます。


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